ノスタルジーのまち

最近2回ほど、大学生の頃よく訪れたまちへ行く機会があった。

大学生の頃、と言ってもたった2年ばかり前のことなんだけれど。
わたしを取り巻く環境はガラリと変わり、あの頃の自分が今のわたしを見たら顔をしかめるかもしれない。

まちを訪れると、たった数年前ではあるんだけれど忘れかけていた当時の気持ちを思い出し、ノスタルジーにつぶされそうになった。

しかし、大学生の頃の記憶がまぶしい、というほど輝いた思い出ばかりがあるわけじゃない。
サークルをきちんとしていた訳でもなく、授業もさぼりがちであった。大学の沿線の駅をあちこち一人でめぐり、カフェでぼうっとしていることも少なくなかった。自分はこれからどうなるんだろうと期待ばかりし、あれこれ手を出してみてはすぐやめたり。人間関係を面倒くさがったり。

それでも、ごくごく少なくても、こんなわたしととても仲良くしてくれた子もいる。
当時のちょっぴり孤独な気持ちを思い出しつつも、友人と過ごした楽しく、少しばかばかしく、でもあの時にしかつくれなかったであろう思い出がよみがえる。


このまちは、いつ来ても人が溢れかえっている。
わたしとは接点がなく、きっとこれからも知り合うことはないであろう、このまちにいる沢山の人々。
この人々のひとりひとりにも、このまちに関する思い出、そして学生時代や社会人時代など、その時々に欠くことのできない、思い出をつくりあった大切な人がいるんだろうと思うと、とても不思議で、温かい気持ちに包まれた。

ある一定の時期だけの関係に結局なってしまってもいい。自分の今までを振り返った時、その時々に大切に思える人がいるのは幸せだ。
わたしも、きっとこれからまた新しい友人関係ができるだろう。
それを楽しみに、まわりの人と楽しく大切に日々を重ねていきたい。

女性アイドルがすきな女の子。

わたしは女性アイドルが大好きだ。

けど、同性のものに憧れるのはなかなか厄介なことでもあると思う。

憧れや嫉妬は、どんなカタチであれ付き纏うと思う。これで結構苦しい思いをしている人もいるんじゃないかな、女性で、女性アイドルが好きな人はみんなどうやって距離感を取っているのか気になるなあと思いつつ、私が思うことを殴り書きのように綴っていきます。ほとんど自己満足のようなものです。悪しからず。

 

思い返せば、女子校にいながらもジャニーズなどの男性アイドルには全くハマらず、幼稚園生の頃から、SPEED、モーニング娘。AKB48乃木坂46…ざっと挙げるとこんな感じでずっと女性アイドルの虜である。

『同性のアイドルが好きってよくわかんない』とか『え、レズなの?(笑)』みたいなことはよく言われてきたけど、自分でもなぜ同性アイドルばかりが好きなのかわからないし、レズでもない。

わたしにとってのアイドルの一番最初の記憶は、モーニング娘。が毎週やっていた冠番組である。(SPEEDは映像ではなく音楽ばかりを聞いていたし、アイドルという認識がなかった。)画面には『かわいい』があふれていて、バラエティをやったり楽曲披露をしたり…どれもがとにかくかわいくてかわいくて、当時小学生の私は、そんな年上のお姉さんをきっと憧れの眼差しで見ていたんだと思う。もしくは、わたしもお姉さんになればこうなるんだろうと。

当時の私といえば、母の趣味でボーイッシュなショートヘア、ジーパン、Tシャツが定番であった。身長が高かったこともあり、あなたは女の子らしいものよりも男の子っぽいものが似合うよ、と。好きな色は水色と言っていたけれど、内心、持ち物がピンク色ばかりの女の子が羨ましかった記憶が強く残っている。わたしも堂々とピンク色の持ち物を持って、ピンク色が好きと堂々と言ってみたかったのだ。

そういえば、女の子らしいアイドルが好きなのはこの経験が影響しているのかも。

 

『かわいい』に憧れつつも、自分が『かわいい』になれない葛藤は小学生から、20代になった今でも付き纏っているんだから嫌になっちゃうよね。

今だってボーイッシュではないものの、かわいらしい感じ(CanCam Rayとか)には抵抗がある。

 

そして、社会に出る頃になると、このスーパーかわいい女の子たちが『かわいい』だけでなく様々な武器(ファッション、お芝居、トーク、学業…etc)を持っていることに尊敬と、打ちのめされる感覚に出会ってしまうのだ。

『かわいい』というものすごい武器を持っているのに、それプラスのものを努力で武器にし、女性アイドルという旬が短いものを、自分の力で自分の道を切り拓いていく様は本当に圧巻である。

ふわっと、特に目標もなくなんとなく日々を費やしている自分にとってこんなにドキリとさせられる存在はない。(ああ、ここまで書いていて、なんだか自分の女性アイドルの愛で方はものすごい自虐というか、ドMというか…なにやっているんだかと思えてきた…)

ただ、そんな、かわいくて、かっこいい生き様をしている彼女たちの姿は、やっぱり同性として憧れを抱くのは当たり前なんじゃないかとも思えてくる。よく言われていることだけど、女の子が女の子アイドルを好きになるのは、セーラームーンを好きになるのと同じことっていうのは本当に真理だと思う。

 

外見だけでなく、内面的な生き様までも憧れてしまう存在がいるのは尊くありがたいことだけれど、見る度に自分の未熟さや至らなさを実感してしまう辛さもついてくる。でも、こんな辛さは大好きなアイドルたちが日々味わっている辛さと比べれば大したことない。そして、アイドルたちは個々それぞれに合ったかわいらしさと、武器と、新しい道を切り拓いていく。画一化されず、それぞれにあったものを模索していく。

やっぱりわたしはこれからもアイドルをずっと好きなんだろうな、それにここまで書いて、思っていたよりも清々しく前向きな気持ちになってきた。

 

彼女たちに恥ずかしくないようにわたしも生きて行こうと思う。

大好きだったタワレコが閉店する

『地元のタワレコが閉店する。』

ふいに、知り合いから聞いた時とてもショックだった。

中高生の頃、しょっちゅう試聴しに行っていた。
少ないお小遣いの中から本当に好きだ!と思ったCDを買ったり
好きなアーティストをみつける出会いの場だったり。
もはや、地元のタワレコは私の青春の一部。


ところが
考えてみると、ここ最近はあまり行ってなかった。

iTunesや、レンタルで済ませてしまうことが増えた。
YouTubeとかで、家に居ながら無料で音楽も聴けてしまう。

それでも時々、タワレコへと足を運ぶと
お店の雰囲気だけでもワクワクするし、少し質の良いヘッドフォンで試聴することもドキドキと楽しい。


これから販売店は減っていってしまうのかな。
足を運ぶこと、直接物を見ること、お店の雰囲気を楽しむこと…
CDは聴くところからではなく、買いに行く時点からエンターテイメントだったのに。


昔の方が良かった、と言う人にはなりたくないけれど、寂しい。寂しい。

便利さに惑わされず、もっとお店を利用していたら良かったのかな。
私も、閉店へと追いやってしまった小さな一部なのかも。

自分が好きなものをどう購入するか。
意識していかないと、知らぬ間に楽な方へ楽な方へ。
知らないうちに、好きなお店を苦しめる1人になってしまう。

オンラインで購入することを悪だとは全く思わないけど、対面販売やお店がなくなったら本当に寂しい。


東京国際映画祭で思ったこと。

街はすっかりハロウィンモード。
私もこの時期は毎年わくわくする。
理由はハロウィンじゃなく、東京国際映画祭が開催されるから。

ここ4年間は毎年欠かさず東京国際映画祭に行き、色々な映画を観ている。
様々な国の映画や、まだ未公開の作品。監督や出演者の方々のお話しが聞けたり。本当に豊かな映画との出会いの場。

まだ学生だった時は、当日料金(500円)で可能な限り映画を観た。
名前を知らなかった国の映画が面白かったり、色々なジャンルの映画に出会うことは楽しくて楽しくてたまらない。

初めて映画祭に行って印象的だったことは、全く知らない監督や役者さんばかりの映画が面白かったこと。
そして上映後のQ&Aで、映画製作(宣伝なども含めて)の金銭面での厳しさと、それでも映画製作にかける情熱や想いの強さを知った。

低予算でもこんなに情熱や想いを込めてつくられた面白い映画があるのに、なかなか人々に知ってもらえないなんて。
製作側の人々だけでなく、作品を知らない人々のどちらにとっても本当にもったいない状況だな、と思った。
観る観ないはもちろん自由だけど、作品を知る機会は大切。何か作れないかなあって本気で考え始めてる。

こんな想いを思い出させてくれたのは、中川龍太郎監督の『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を観た時。
映画を観て、中川監督のお話しを聞きながら心を打たれ続けていた時にふと、
上映前に太賀さんが、アンテナを張っていないとなかなか映画作品って知る機会がない…という様なことを言っていたのを思い出した。
 
作品を知る場として、影響力が強いものと言ったら
ネット・TV、書籍、ラジオなどっていう順かなあ。
作品を知って観たい!と思っても、DVDでいいやって言う人も多い。どう映画館に惹きつけるか、っていう問題もあるなあ…知らない人たちと、大きなスクリーンで、集中して観る環境って本当に幸せなんだけどなあ。。。

まだまだ何も方法は思い浮かばなくてぼやっとしてるけど
今の私が確実にできることは、本当に僅かなんだけど、SNSで映画の口コミをすることだと思う。
映画の口コミは1つでも多い方が、魅力が書かれていたら、興味を持つきっかけになるかもしれない。

もやもやを言葉に。

心(頭?)でモヤモヤやっとしている想い・考えが言葉にならない。
っていう事が最近増えた気がする。

昔は文章書くの好きで、褒められることも多かったのに、いつの間に衰えたのか。磨くことを怠ったのか…
小学生の頃、よく日記が宿題として出されていたんだけど本当に楽しかった。
上手い下手は考えず、ただ書きたいことを書きたいまま。またいつか、あんな境地になれたらいいなあ…なんてぼんやり思ったり。


上手く言いたいことが言えず歯痒くて、Google先生
『言語化が苦手なんだけど…』って聞いてみたけど
『とにかく言葉(文章)にしていくしかないんだよ!!!』っていうのばかりでした。
そりゃそうよねー。コツとかテクニックなんて探す前に、実践あるのみのみ。

と、言うわけで
放置気味なこのブログも、もっともっと更新していきたいと思います。

先ず今晩は、その所信表明を致しましたさっ。

では、また近いうちに。。。

タクシーの運転手さん。

私はタクシーの運転手さんと話すのが好きだ。

初対面でたった10分程度だけの出会い。
なんでもない話をしたり、一度だけの出会いだからこそ、身近な人には言えない相談をしてみることもある。
でも特に好きなのは、運転手さんに、お仕事とどう向き合っているのかを聞くことだ。直接、こういうお話を聞けるのってタクシー運転手さんくらいかも。
でも
①自分から話しかけない。
②自分から根掘り葉掘り聞かない。
というマイルールがある。

大体、運転手さんから声をかけるタイプの人は、お客との一期一会の出会いを楽しんでて、だからこそなのか、タクシー運転手という仕事に誇りを持っている。
明日も頑張ろう、と思わせてくれる。お話しをしていて、とても良い気分になる運転手さん。


今日は久しぶりに終電を逃し、タクシーで帰ってきた。

運転手さんはとても不機嫌そうであった。
行き先をつげると、ため息混じりの『はい』が返ってきたのだ。
もちろん道中もずっと無言で、私が降りるとものすごい早さで去って行った。

運転手さんの事情はわからないけれど、なんだかもったいないなあと思った。

私も忘れがちだけど、きっとなんだって楽しむ気になれば楽しめるはずだし、それは誰かにとってもプラスとなるのだ。

もちろん、いつだってそういう気持ちでいるのは難しいかもしれない。
でも、なるべく、自分自身も楽しみ、誰かのことも喜ばせられたらな。
そんなことを思う8月最後の土曜の夜でした。


生きること、食べること

映画『リトル・フォレスト』と小川糸さんの小説『あつあつを召し上がれ』とエッセイ『たそがれビール』を、ここ1週間のあいだに鑑賞。

丁寧な生活を送ることや、暮らしの本質についてもっと知りたい気持ちから『食』に関する作品を自然と選んだのかも。


衣食住。

学校の授業で、コンビニはもちろん、スーパーもなくて自給自足のように暮らしていた時代には、家族それぞれに家事の分担が決まっていたと聞いたことがある。

今は、会社に雇われ仕事をして貰ったお給料で、衣食住を手にする。
なるべく自力ですることもできるけれど、仕事で忙しかったり、様々な誘惑から、お金を使って手にすることが多い。

昔は、生きていくために仕事(=分担された家事)をしていた。
現代の仕事をする(=会社などに雇われて働く)ことは衣食住に直結していない。
そう考えると、家事を分担していた時代には、生きている意味がわからなくなることは少なかったのでは?と思う。

家族全体で達成すべきこと、そのために自分のやるべきことがハッキリしていて、それは自分のため、家族のためになる。目的と手段がとても明確だ。

現代は様々な娯楽や情報が溢れていて複雑。
何のために生きているのか、なぜ仕事をしているかという問いは、深く深く樹海のように迷い込んでしまう。
日常を大切にできなくなってしまう。


素晴らしい功績のアスリートや、ビッグビジネスを起こした人などを取り上げるテレビ番組は多い。壮絶な登山や長距離のマラソンに挑戦するものも。アイドルだって裏側をみせたり、大人から与えられた苦難を乗り越えたりするところを売りにしてる面がある。

なにか大きなことを成し遂げること、限界に挑戦することは、見ている人を圧倒させる。刺激。かっこよくてキラキラみえる。(きっとそう見せているとも思える。)
でもあくまでこれはエンターテイメントとして、”普通・日常”でなく”特殊”だから、TVショーとなる。それを忘れると日常が歪んでしまうな、と思う今日この頃。