東京国際映画祭で思ったこと。
街はすっかりハロウィンモード。
私もこの時期は毎年わくわくする。
理由はハロウィンじゃなく、東京国際映画祭が開催されるから。
ここ4年間は毎年欠かさず東京国際映画祭に行き、色々な映画を観ている。
様々な国の映画や、まだ未公開の作品。監督や出演者の方々のお話しが聞けたり。本当に豊かな映画との出会いの場。
まだ学生だった時は、当日料金(500円)で可能な限り映画を観た。
名前を知らなかった国の映画が面白かったり、色々なジャンルの映画に出会うことは楽しくて楽しくてたまらない。
初めて映画祭に行って印象的だったことは、全く知らない監督や役者さんばかりの映画が面白かったこと。
そして上映後のQ&Aで、映画製作(宣伝なども含めて)の金銭面での厳しさと、それでも映画製作にかける情熱や想いの強さを知った。
低予算でもこんなに情熱や想いを込めてつくられた面白い映画があるのに、なかなか人々に知ってもらえないなんて。
製作側の人々だけでなく、作品を知らない人々のどちらにとっても本当にもったいない状況だな、と思った。
観る観ないはもちろん自由だけど、作品を知る機会は大切。何か作れないかなあって本気で考え始めてる。
こんな想いを思い出させてくれたのは、中川龍太郎監督の『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を観た時。
映画を観て、中川監督のお話しを聞きながら心を打たれ続けていた時にふと、
上映前に太賀さんが、アンテナを張っていないとなかなか映画作品って知る機会がない…という様なことを言っていたのを思い出した。
作品を知る場として、影響力が強いものと言ったら
ネット・TV、書籍、ラジオなどっていう順かなあ。
作品を知って観たい!と思っても、DVDでいいやって言う人も多い。どう映画館に惹きつけるか、っていう問題もあるなあ…知らない人たちと、大きなスクリーンで、集中して観る環境って本当に幸せなんだけどなあ。。。
まだまだ何も方法は思い浮かばなくてぼやっとしてるけど
今の私が確実にできることは、本当に僅かなんだけど、SNSで映画の口コミをすることだと思う。
映画の口コミは1つでも多い方が、魅力が書かれていたら、興味を持つきっかけになるかもしれない。
もやもやを言葉に。
心(頭?)でモヤモヤやっとしている想い・考えが言葉にならない。
っていう事が最近増えた気がする。
昔は文章書くの好きで、褒められることも多かったのに、いつの間に衰えたのか。磨くことを怠ったのか…
小学生の頃、よく日記が宿題として出されていたんだけど本当に楽しかった。
上手い下手は考えず、ただ書きたいことを書きたいまま。またいつか、あんな境地になれたらいいなあ…なんてぼんやり思ったり。
上手く言いたいことが言えず歯痒くて、Google先生に
『言語化が苦手なんだけど…』って聞いてみたけど
『とにかく言葉(文章)にしていくしかないんだよ!!!』っていうのばかりでした。
そりゃそうよねー。コツとかテクニックなんて探す前に、実践あるのみのみ。
と、言うわけで
放置気味なこのブログも、もっともっと更新していきたいと思います。
先ず今晩は、その所信表明を致しましたさっ。
では、また近いうちに。。。
タクシーの運転手さん。
私はタクシーの運転手さんと話すのが好きだ。
初対面でたった10分程度だけの出会い。
なんでもない話をしたり、一度だけの出会いだからこそ、身近な人には言えない相談をしてみることもある。
でも特に好きなのは、運転手さんに、お仕事とどう向き合っているのかを聞くことだ。直接、こういうお話を聞けるのってタクシー運転手さんくらいかも。
でも
①自分から話しかけない。
②自分から根掘り葉掘り聞かない。
というマイルールがある。
大体、運転手さんから声をかけるタイプの人は、お客との一期一会の出会いを楽しんでて、だからこそなのか、タクシー運転手という仕事に誇りを持っている。
明日も頑張ろう、と思わせてくれる。お話しをしていて、とても良い気分になる運転手さん。
今日は久しぶりに終電を逃し、タクシーで帰ってきた。
運転手さんはとても不機嫌そうであった。
行き先をつげると、ため息混じりの『はい』が返ってきたのだ。
もちろん道中もずっと無言で、私が降りるとものすごい早さで去って行った。
運転手さんの事情はわからないけれど、なんだかもったいないなあと思った。
私も忘れがちだけど、きっとなんだって楽しむ気になれば楽しめるはずだし、それは誰かにとってもプラスとなるのだ。
もちろん、いつだってそういう気持ちでいるのは難しいかもしれない。
でも、なるべく、自分自身も楽しみ、誰かのことも喜ばせられたらな。
そんなことを思う8月最後の土曜の夜でした。
生きること、食べること
映画『リトル・フォレスト』と小川糸さんの小説『あつあつを召し上がれ』とエッセイ『たそがれビール』を、ここ1週間のあいだに鑑賞。
丁寧な生活を送ることや、暮らしの本質についてもっと知りたい気持ちから『食』に関する作品を自然と選んだのかも。
衣食住。
学校の授業で、コンビニはもちろん、スーパーもなくて自給自足のように暮らしていた時代には、家族それぞれに家事の分担が決まっていたと聞いたことがある。
今は、会社に雇われ仕事をして貰ったお給料で、衣食住を手にする。
なるべく自力ですることもできるけれど、仕事で忙しかったり、様々な誘惑から、お金を使って手にすることが多い。
昔は、生きていくために仕事(=分担された家事)をしていた。
現代の仕事をする(=会社などに雇われて働く)ことは衣食住に直結していない。
そう考えると、家事を分担していた時代には、生きている意味がわからなくなることは少なかったのでは?と思う。
家族全体で達成すべきこと、そのために自分のやるべきことがハッキリしていて、それは自分のため、家族のためになる。目的と手段がとても明確だ。
現代は様々な娯楽や情報が溢れていて複雑。
何のために生きているのか、なぜ仕事をしているかという問いは、深く深く樹海のように迷い込んでしまう。
日常を大切にできなくなってしまう。
素晴らしい功績のアスリートや、ビッグビジネスを起こした人などを取り上げるテレビ番組は多い。壮絶な登山や長距離のマラソンに挑戦するものも。アイドルだって裏側をみせたり、大人から与えられた苦難を乗り越えたりするところを売りにしてる面がある。
なにか大きなことを成し遂げること、限界に挑戦することは、見ている人を圧倒させる。刺激。かっこよくてキラキラみえる。(きっとそう見せているとも思える。)
でもあくまでこれはエンターテイメントとして、”普通・日常”でなく”特殊”だから、TVショーとなる。それを忘れると日常が歪んでしまうな、と思う今日この頃。
挫折、なんて言うほどかっこよくない
芸術が好きだ。
心揺さぶられるような映画、美術作品、音楽、文章がとにかく好き。
つくった人の世界観、考え方を味わうことが本当に好き。
好きで好きで、尊敬していて、憧れているとやっぱり、その世界に関わりたい、身を持って知りたいと思うようになる。
映画製作やお芝居に挑戦したこともあった。芸術関係の仕事にも就いていた。
ところが、実際にやってみてわかったのは、心を揺さぶってくれるものたちは本当に様々な人々が骨身心身を削ってつくられていたということ。
本当に想像を絶する大変さ。
残念なことに、私にはそこまでの根気や体力がなかったということを思い知った。
この失敗のような経験は1回だけでなく、もう何度となく繰り返してきてしまった。部活でやっていた音楽もそうだ。根気や体力不足は痛いほど感じていたのに。
そんなことを繰り返してばかりの20年と少しの私の人生。
挫折、なんていうほどかっこいいものじゃない。挫折って言えるほど努力もできてない。かっこわるい。
なぜ性懲りも無く、何度も何度も繰り返したのか。その世界に魅了されたのはもちろんだけれども、一番大きく頭を占めていたものは『関わるとは、仕事にするということ』という思い込み。
関わることは仕事でなくてもいい。
芸術だって、鑑賞する人がいて始めて、芸術として成り立つとも考えられる。
最近は、とことん芸術を愛することも関わるということではないかと思い始めた。
沢山の芸術に出会い、深く味わい、心身に染み込ませてゆく。これは人生をより楽しく、豊かにしてくれる。
そして、その豊かさを周りに少しでも還元することができたらいいな。それは”関わる”ということだと思う。
そしてきっと、とことん芸術愛する先に、今の私には想像し得ない世界があるのかも、とわくわくできるようになった。
最後に
よしもとばななさんの『おとなになるってどんなこと?』でハッとさせられたことを。
''とことん自分を極めることの大切さ。そしてそれが誰かを救うことがある。”
仕事とアイデンティティ
ここ1年間で学生から社会人へとステージが変わった。
日々もがき悩み、失ったり、人に迷惑や心配をかけたり、様々な経験を得る中で、やっと大切なものに気づけてきた。
まだまだ未熟な23歳だけど、やっと自分の基盤が築けてきた気がするので久しぶりにブログを更新。
『心身尽くし、プライベートを犠牲にしても熱心に働くことがかっこいい』と思っていた。
そして自分の好きな『芸術』に関わる仕事がしたいと考えていた。
趣味は色々とあるけれど、友達が多いわけじゃない。
ならば仕事に一生懸命な人になろうと思っていた。
本当に愚かだけど、人間関係での欲求不満を仕事で打ち消そうとしていた気がする。
そして自分が憧れていた世界、一見華やかな世界…その実、骨身を削るような世界で働いた。
とにかくとにかく毎日がめまぐるしくて、仕事のためだけに生きているような日々だった。
そういう環境を望んでいたはずだけど、実際にやってみたら、何のために生きているのかわからなくなった。
身体もボロボロになって、心も追い詰められていった。
そんな時、私の周りにいてくれた家族や友達が救ってくれた。
優しい、大切な人たちのおかげで仕事を辞めることを決断できた。
この決断が合っていたかどうか悩む時は多々あったが、やっと最近は本当にこれで良かったんだと思う。
仕事は心の隙間を埋めてくれない、仕事は仕事。それ以上でも以下でもない。
これを心底理解するまで随分時間がかかった。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、という言葉の通り、またあの華やかな世界に戻りたいと思ったこともあった。
私は恥ずかしながらも、アーティスト気質な人に憧れ、感化されやすく、どうしても憧れを捨てきれなかった。
(そもそも感化されやすい時点で、そんな人が表現者になんて向いてない気もする)
人には、いろんな人がいるのだ。
誰が正しいというわけではない、それぞれ個性があるだけ。
なのに自分を否定して、自分にないものを憧れ続けるのは自分を本当に疲弊させるし傷つける。
今だってアーティストの方々は本当にかっこいいと思う。まだ100%憧れを捨てきれたわけじゃない。
でも、自分にとって幸せとなるのは、社会の役に立てる度合いから言っても
自分に合った、自分を活かせるところで生きていくことがベストなんだと思う。
世間一般でなく、奇を衒うのでもなく、自分の価値観を知り、それを信じていくことは本当に大切なことだと思う。
それが本当に本当に心にストンと理解するまで
これもまた随分と時間がかかった。
その人の価値は仕事では測れない
目に見えてわかるスペックでもない
目には見えない、その人の本質を大切にしていきたい。
やっと、そんなあたりまえの考え方がちゃんとわかってきた。
そして私は、日々の何気ない暮らしと周りの人を大切に生きていきたい。
毎日をちゃんと暮らしていく、そんなあたりまえを大切にする。
最後に、自分が何だかよくわからなくてもがいていた時に、助けてくれたものを一部抜粋して。。。
書籍
『うつくしいひと』 西加奈子
『漁港の肉子ちゃん』 西加奈子
『チエちゃんと私』よしもとばなな
『おとなになるってどんなこと?』 よしもとばなな
ドラマ
『心がポキっとね』
映画
『あん』
『フランシス・ハ』
『きみはいい子』
『あぜ道のダンディ』
『お盆の弟』
不器用だったり、世間で言う''普通”になれなかったりした人々に対して
こんなにも優しい、愛のある目線をくれるものがあるんだなあと思うと、この世もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思う今日この頃でした。
思いのズレ
大切な人と意見が大きく違った。ほぼ、正反対ってくらい。
意見が違うのは当然のことだけど
根本的な大切な部分で、ズレた。
長い長い付き合いだったけど、ああ、こんな違いがあったんだなあ。
似てるところが沢山あって、これも同じかなって思ったら違ったんだなあ。
それを悲しむのは変な気がするけれど
心の中で悲しく思った。
人って、まるっきり同じ人なんていない。
昔はその言葉を、人それぞれ様々な個性があるんだなって嬉しかった。
今は、人って孤独だなあって思う。
まるごと100%わかりあえることってないんだね。
解り合おうとするより、認め合うことを。
大好きな歌手がそう歌ってたなあ。
まだ、それでも寂しさはぬぐえない。